人的資本経営(HCM)

人的資本経営が重視される背景

人的資本とは、非財務資本のうち社員の知識やスキル・能力、経験やノウハウ、人的ネットワーク等を指します。そして、人材を「資本」として捉え、人材資本にしっかり投資をし、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上を図ることを人的資本経営(HCM;Human Capital Management)といいます。

近年、モノからデジタル技術革新を背景とするサービスへと産業構造が変化したことに伴い、競争優位性を保つべく、イノベーションの創造により均質化されてきた市場を破壊する革新的な人的資本の需要が一気に増したことから企業価値の構造が大きく変化しました。特に米国の株式市場では、50年前にはトップ企業の多くで時価総額の大半で有形資産が占めていたのが、今やその9割が無形資産で占められることとなり、半世紀で構成比率が逆転しました。

資料出所:内閣官房新しい資本主義実現本部事務局 経産省経済産業政策局「基礎資料」(令和4年2月)

加えて、多くの投資家たちはリーマンショックなど過去の金融危機の反省から安定運用に主軸を置き、ESGの観点でサステナブルな企業価値の向上を評価する投資スタイルに移行したことから、財務諸表のみならず、地球温暖化や人種差別など社会問題への企業の取り組みや健全な経営体制を維持しようとするESG経営が注目されることになりました。

このような潮流の下、機関投資家からは、財務情報だけではなく人的資本等の情報開示の要求が強まることとなり、わが国においても欧米諸国の先進的な動きを受け国内での様々な議論を経て、2021年6月にはコーポレートガバナンス・コードの改訂により人的資本の情報開示に関する原則が追加され、更に2023年からは、上場企業に対して有価証券報告書での開示義務に伴い、情報開示の流れが本格化しました。

日本における人的資本の情報開示の動向

上記の通り、日本では2023年3月期の決算企業から有価証券報告書での義務化されたことによって人的資本情報の法定開示が適用されましたが、ここに至るまでは以下の過程を辿りました。

1.人材版伊藤レポート
2020年9月、経済産業省から経営戦略と連動した人材戦略をテーマとした「人材版伊藤レポート」が発表され、続いて2022年5月に「人材版伊藤レポート2.0」が発表され、人的資本経営を実現するための具体的な基準・指標やアイデアが示され、これを機に人的資本の情報開示に注目が集まることとなりました。

2.東京証券取引所「コーポレートガバナンス・コード」の改訂
2021年6月、東京証券取引所より、上場企業の企業統治指針である「改訂コーポレートガバナンス・コード」が発表されました。これには「多様性の確保に向けた人材育成方針・社内環境整備方針及びその実施状況」、「サステナビリティを巡る課題への取り組み」、「人的資本・知的財産への投資等の重要性に鑑みた経営資源の配分や事業ポートフォリオに関する実効的な監督」の3つの補充原則が新設され、上場企業に対して人的資本に関する情報開示が迫られることとなりました。

3.経済産業省「非財務情報の開示指針研究会」
2021年9月、経済産業省「非財務情報の開示指針研究会」が始まり、気候関連情報・人的資本情報を議題としてサステナビリティ関連情報の開示について議論が行われました。

4.内閣官房「非財務情報可視化研究会」
2022年2月より内閣官房に於いて「非財務情報可視化研究会」が定期的に開催されています。ここでは、企業が情報開示を進める上での示ルールや価値評価の指針が策定されましたが、2022年8月発表の「人的資本可視化指針」では7分野19項目の情報開示が望ましいと示されました。

5.ISO30414
2018年12月、国際標準化機構(ISO)が人的資本に関する情報開示のガイドラインである「ISO30414」が発表されました。人的資本の11領域と58個の指標が含まれていますが、組織が持つ人的資本の情報を投資家やステークホルダーなど内外に開示することによって企業の持続的な経営と成長を促すことを目的としており、開示情報によって組織に人的資本がどの程度貢献しているのか可視化され、投資対効果を判断すること、事業戦略に沿った人材戦略を見直すことが可能であることがガイドラインに示されています。

6.有価証券報告書
2023年3月期決算企業から毎年度終了後の3ヶ月以内に提出する有価証券報告書の中で、以下の5項目について人的資本開示の義務化が始まりました。

・人材育成方針
・社内環境整備方針
・女性管理職比率
・男性の育児休業取得率
・男女間の賃金格差

新たにサステナビリティに関する記載欄が設けられ、人材育成方針と社内環境整備方針に関しては、方針の指標および目標の開示が必要となりました。対象となるのは、上場企業を始めとした約4,000社です。

人材戦略の策定・実行

人材版伊藤レポートでは、人的資本経営の実現に必要な「人材戦略の3つの視点(3P)」と「人材戦略に必要な5つの要素(5F)」で構成された、現場で実践するためのモデルが示されました。

出所:経済産業省「人材版伊藤レポート」

人的資本経営モデルを実践するには、まず人材戦略の3つの視点(3P)を押えることが重要です。

  1. 経営戦略と人材戦略は連動しているか
  2. 目指すべきビジネスモデルや経営戦略と現時点での人材や人材戦略との間のギャップを把握できているか
  3. 人材戦略が実行されるプロセスの中で、組織や個人の行動変容を促し、企業文化として定着しているか

さらに、人材戦略を策定する際に具体的に検討し、盛り込むべき内容は、5つの共通要素(5F)が示されています。

  1. 動的な人材ポートフォリオ計画の策定と運用
  2. 知・経験のダイバーシティ&インクルージョンのための取り組み
  3. リスキル・学び直しのための取り組み
  4. 社員エンゲージメントを高めるための取り組み
  5. 時間や場所にとらわれない働き方を進めるための取り組み

人的資本経営に向けたステップ

人材戦略の3P及び5Fを踏まえた人的資本経営を実践のステップは以下の流れとなります。

①パーパス・理念・戦略の確認及び明確化
企業価値の持続的向上を果たしていくために変革の起点となるのは、経営の柱となるパーパスや経営理念です。まずは、原点に立ち戻り自社の存在意義が明らかとなっているかを確認したうえで、それらの理念を実現するための課題を網羅した経営戦略をデザインします。

②経営戦略起点で人材戦略を考えることができる推進責任者
人材戦略を策定・実行する責任者として推進リーダーポジションの設置を検討します。具体的にはCHROと呼ばれるような、経営戦略起点で人材戦略を考えることができ、課題解決やステークホルダーとの対話を担う役割であるため、人事部門に偏った経験ではなく、人材戦略と事業戦略の両方を経験した人物をアサインすることが望ましいと言えます。

③経営戦略と連動した人材戦略を策定する
自社のパーパスの実現に向けて人材戦略をどのように位置づけ、どのような道筋で目指していくのかという統合ストーリーを描くことがスタートになります。目指すゴールの設定では、「過去から現在に至るまでの取り組み」を踏まえて「未来に向けて目指す姿」とのギャップを整理することで必要事項が見えてきます。そして、戦略との乖離を防ぐためにも様々な人的資本データを可視化し、同じテーブルで議論ができるようにしておきます。これは到達ゴールの共通認識を持たせるためです。

尚、既に人材戦略を策定している場合には、社員の能力を最大限引き出せているか、人材戦略そのものを修正することも必要です。人材版伊藤レポートでも述べられている通り、まずは経営戦略と人材戦略との連動ができているかどうかの確認が必要となります。

④非財務資本KPIの設定と施策の検討
目指すゴールの設定を受けて、次はどのような施策を打っていくのかを指標・目標とともに検討します。投資家たちは当該企業が投資対象としての適格性や信頼性ばかりではなく、戦略の実行力や推進力が十分に備わっているかを見て投資判断を行います。そのため、他社の右に倣えで比較可能性の視点ばかりでなく、投資家目線で魅力的な企業の姿を伝えられるよう独自性ある指標や施策も積極的に検討すべきです。一方で、情報開示が目的化して、無理な指標や目標を設定しないことにも留意が必要です。

⑤KPIのモニタリングと改善活動
施策実行による効果の検証は、設定した目標の定量的な達成度や定性的な変化状況で把握します。具体的には、人的資本関連の定量データはシステムを活用して把握し、職場環境や処遇など組織風土や人事制度に関連する施策満足度等については、エンゲージメントサーベイを導入することで把握します。

また、どうしても数値化・定量化できない、アウトプットを評価しにくい場合は、取り組みプロセスの妥当性や質の向上等、アウトカムを見せることも良いでしょう。社内外のステークホルダーに対して、施策の取り組みによって目指すゴールの姿がメッセージとして伝わることが重要です。

⑥人的資本経営の基盤を整備する
統合ストーリーを実現させるためのフレームワークである開示項目や指標の設計とマネジメント体制の構築が人的資本経営を実践するプロセスとなりますが、その実現に向けてどのような人材が必要か、その人材は社内にいるのか、どうやって育成するのか、あるいは社外から獲得するのか、どうやって確保するのか、人材ポートフォリオを明確にし、具体的な計画や施策を示しながらマネジメントの基盤を構築する必要があります。

今回の人的資本に関する情報開示の義務化は、人材を資本と捉え、社員と丁寧に向き合うことが持続的な企業価値の向上に繋がることの認識を企業側に促し、日本企業の競争力強化を願う市場関係者の期待が背景にあります。しかし、人的資本経営自体は決して新しい概念ではなく、組織人事の世界では過去何十年も言及されてきた考え方です。むしろ、今回人的資本と企業価値向上の関係や指標開示と整理の枠組みに焦点が当たったことにより、ロジカルに組織・人材戦略が推進できる環境が整いつつありますので、あとは情報開示に止まらず、各社が人的資本経営を実装できるレベルまでマネジメント体制を整備することが重要です。