人的資本投資が企業価値向上を導くストーリー
企業が行う人的資本への投資は、短期的には販売管理費と同様に費用計上されるため資本効率を低下させる要因となりますが、中長期的視点で見ると、経営戦略や施策の推進を支える基盤として、財務指標の改善や資本効率の向上、そして企業価値の向上をもたらすドライバーとなり得るものです。
企業経営者は、自社の人的資本への投資と関連する経営戦略や施策、そして財務指標や資本効率の向上につながる一連の相互関連性(下図イメージ参照)を分かりやすく示すことが望まれます。これによって投資家の理解を得ることが出来れば、短期的な利益確保に対するプレッシャーを乗り越えることにつながり、自社の人的資本投資と長期的な企業価値向上の両立を目指していくことができます。
PBR改善による企業価値の向上
一般的には、企業価値を表す財務指標として、PBR(株価純資産倍率)が用いられます。PBRは会計上の純資産(自己資本)の何倍の時価総額かを示します。PBR=株価÷1株当たり純資産(BPS)ですが、これが1倍未満になると企業の解散価値を下回る、つまり人的資本や知的資本などの無形資産がマイナスの状態となり、上場の意味を成さないことになります。逆に1倍以上であれば帳簿を上回る事業価値を創造できている状態です。経営者が中長期的に創出しなければならない企業価値に相当します。
このPBRを巡っては、2023年1月に東京証券取引所が継続的にPBR1倍未満の上場企業に対して、資本収益性の改善に向けた方針や具体的な取組み、その進捗状況の開示を求める要請として、これまでにない強いメッセージを発信しました。因みに、東証プライムとスタンダードに上場する企業のうち約半数がPBR1倍を割り込んでおり、米国企業と比較して日本はPBR1倍未満の企業がはるかに多い状況となっています。
この要請を受け、中期経営計画等や中長期ビジョンの中でアクションプランを実行する企業もありましたが、余剰資金が潤沢にある企業を中心に、自社株買いや増配によって純資産を減らすことでPBR上昇をもたし、資本効率の見直しが行われたケースが多数を占めました。つまり、分母の1株当たりの純資産を減らす方法です。この方法は、株主への利益還元策として投資家から好感されるため株価は上昇する傾向にあります。
PBRはさらに、PBR=ROE(自己資本利益率)×PER(株価収益率)と分解されます。上記の自社株買い等によって自己資本が減るためROEが上昇し、PBR向上に寄与するわけですが、自社株買いによって株主資本コストの上昇リスクが生じ、増配も内部留保の減少を招くため、長期的にはROE(株価収益率)が毀損し、PBRが低下する可能性があるため、ROE上昇策はあくまでも短期的なPBR向上の打ち手であることに留意が必要です。
しかし、一方でROEは、株主が企業に払い込んだお金である自己資本の金額を、企業が上手に使って利益を生み出したのかを測る指標であり、高い利益を獲得した企業は配当支払後に蓄積された内部留保が翌年の自己資本に蓄積されることになります。こう考えると持続的に利益の積み増しができる高ROE企業は、将来のPBRは高まる傾向にあります。そのROEの基準は、一般的に8%を上回る水準とされており、ROEが8%を超えるとPBRが0.15倍上昇するとの理論もあります。
自社株買いや増配のように(PBR=株価÷BPS)の分母を操作するような短期的なROE上昇策ではなく、前述の利益の積み増しによる自己資本増、つまり分子の株価を引き上げ、将来のPBR上昇に導く方法に着目します。もう一方の分解式(PBR=ROE×PER)のうち、ROEは足元の視点を表し、PERは将来の成長可能性を表しています。本来、売上高の増加や利益率の改善、言い換えれば、成長力や稼ぐ力を養ってフリーキャッシュフローを増加させる効率経営の追求こそが企業経営のあり方としては健全です。これにより、投資家や市場からの長期的な成長期待(PER)が高まり、株価上昇に繋がるのです。つまり、人材施策や研究開発、顧客基盤に資金を振り向けることでPERの上昇を図り、市場に対し自社の成長性を示すことによって持続的な企業価値(PBR)の向上を目指すべきです。
従って、経営者はROE8%とPBR1倍を常に意識し、この水準を持続的に上回るよう、グローバルな市場で対話を重ねることが企業価値向上の要諦となります。
東証側も、経営者には自社の成長性に対する市場の評価への意識を高める必要があると指摘しており、持続的な企業価値向上への取り組みによる株価上昇こそが本来あるべき経営の意識改革なのです。非財務資本のうち、企業価値向上に最も相関性が高いと言われる人的資本への投資に市場関係者が注目しているのもそのためです。
持続的な企業価値向上策として、いくつかの具体的な影響が検証されていますが、その代表的な事例としてエーザイとNECの考察をご紹介します。これらの実証研究により、人的資本を始めとする非財務資本への投資とPBR上昇の関係性がわかります。
【エーザイ】
・人件費を1割増 ➡ 5年後のPBRが13.8%向上
・研究開発投資を1割増 ➡ 10年超でPBRが8.2%向上
・女性管理職比率を1割改善 ➡ 7年後のPBRが2.4%向上
・育児短時間勤務制度利用者を1割増 ➡ 9年後のPBRが3.3%向上
【NEC】
・部長級以上の女性管理職数を1%増 ➡ 7年後のPBRが3.3%向上
・従業員一人当たり研修日数を1%増 ➡ 5年後のPBRが7.24%向上
このように人的資本関連への投資がPBRの向上に大きく貢献していることがわかります。